闘病と演奏との両立
小澤自身のHPでのライブの記録の更新は、7/20,21の福島以降は、ありませんが、
ツアーを含め、何本か演奏活動を続けていました。
本人が体温と体重を記録した闘病メモと、
断片的に記述していたものを時系列で並べながら、
ここに記させていただこうと思います。
そもそも、小澤は強靭な体力の持ち主であり、
かつ、全力を出し切る事を惜しげ無くするタイプの演奏家であったため、
「具合の悪い」という状態は、本人も、周りもなかなか理解しがたいものでした。
発熱しても、本番があれば「死んでもやる」と、
現場に運転していき、本番をし、楽器を積み込んで再び運転する事ができました。
具合が悪いから休むという事は、
50歳の時にギックリ腰をして入院でやむを得ずという他は、
ほとんど記憶にありません。
そんな小澤が、まず体調不良に悩まされたのは、2012年の夏くらい。
腕に原因不明の皮膚炎ができた事でした。
なかなか治らず、皮膚科を受診したという事が、
病院にいく習慣がなかったので、
「薬をもらったら、早く治った」と、
まるで原始人が初めて診察を受けたような感想を言っていました。
秋になると、胸焼けを訴えるようになり、
中華料理と回転寿しが食べられなくなりました。
2012年の10月後半から、微熱が下がらない状態の体調不良が続き、
自然と肉をさけるような食生活がはじまりました。
体調不良の中、ライブ出演を続けているうちに、
もしかしたら、この体調不良は命にかかわる事ではないのか?
筆者にそう打ち明けたのは、2013年の4月1日。
「肝臓が服の上からでも、こんなに大きくなっている。」
病院に行く事をすすめても、
「入院したら、またライブに穴をあけるから」
と、なんとか自力で治す方法を見つけようと、
マッサージ機器をいくつも試していましたが、
突然、激痛が起こる症状が4月にはでてきていました。
ゴールデンウィークには、ライブの本番が一日に何本も重なる日もありましたが、
病院には行く事は拒んでいたのですが、5/9に遠出をした時にも激痛が起きると、
「いつか運転中に発作をおきると、大事故になりかねない」と判断し、
翌日,5/10に病院で診察をうけると、そのまま入院、検査を受ける事になりました。
5/13に膵臓癌で、肝臓に転移。余命は年内と本人は医師の話から受け取ったと、
病院から戻って間もなく電話で聞かされました。
5/15日に退院すると、産まれ故郷の東京・善福寺公園へ。
「普通、こんな風に余命が決まってしまうと、やりたかった事をやろうと、
旅に出たりするのかもしれないけれど、自分は、家でお茶を飲んだり、
演奏したり、そんな日常生活をおくっていたい」
「死の恐怖を和らげようと、宗教にすがったり、
自暴自棄になって飲んだくれたりはしない。
これからは、自分宗教だ。」
と、言うと、太極拳のような深呼吸をしました。
その後、5/18~20まで、短い入院をしました。
(大阪のツアーは、キャンセルしました。)
それまでの人生で、ほとんど薬を飲むことがなかったために、
薬疹で、鼻がまっ赤になっていました。
5/21には、はじめてのPET検査。
薬疹がおちついて、薬にも慣れて、
5/26(日)には、高円寺のパンデイロ教室に復帰。
2週続けて火曜日に抗がん剤の点滴、その後、
1週休むという治療のローテーションが、はじまったのが、
5/28の52歳の誕生日でした。
ケーキがもったりして食べられないというので、あんみつを食べてお祝い。
元気な時には、シュークリームの中身のカスタードだけを
ボウルいっぱい食べた武勇伝を持つ人が、クリームあんみつをさけて、
あんみつと慎重に言っていました。
身体に負担がかかるものを食べると、痛みがおこる事をさけていたことからですが、
ほとんど身体が危険なものをうけつけない感じでした。
国分寺の自然食カフェの「カフェスロー」に通うようになりました。
6/12 ライオンキング復帰
玄米にじゃこやごまなど混ぜた「パーフェクトおにぎり」を弁当に持参。
食べ物と、痛み止めを予防として時間をみて服用する方法を見つけ、
演奏活動との両立をはかる目安がたちました。
6/14(金)西巣鴨マルメラアダ内「白虎」
PPS (E3)渡辺隆雄tp,臼井康浩elg,小澤敏也per
6/17(月)幼稚園にてこども向けの演奏
6/17(月)なってるハウス
松本健一sax 福島久雄g 永塚博之b 小澤敏也per ゲスト池澤龍作dr 山田あずさ per
6/27(木)平塚ハッピーマウンテン
中西文彦g 小澤敏也per
7/3(水)高円寺ショーボート
「フルデザインレコードレビュー」PPS(E3)ほか
7/6(土)吉祥寺アウボラーダ
Duo Raiz (武石由起子vo 高田泰久g)小澤敏也per
この頃は、ライオンキングも昼夜公演をノリ番の時にはこなし、
パーカッションIIのレギュラーパーカッショニストとしての任を果たしています。
本人の闘病日記の一部
『7/13(土)ライオン昼夜、バースデーイベント付き。弁当持参。
よくがんばって演奏しているよなぁ。癌なんだぜ。しかもラストステージ
(注:癌の進行度合いを示すステージ4)
こんなにすごいヤツがいるか?拍手が自分のためだと思えた。』
7/20(土)、21(日)
福島ビアフェス 4ステージ
Duo Raiz (武石由起子vo 高田泰久g)Mao dos Quatro(渡辺亮per 小澤敏也per)
7/24 造影剤を投与しての検査の翌日、7/25(木)もライオンキングに出演しています。
この頃から、
「命を削って演奏している。演奏すればするほど、余命が縮む」
という意識を持っていたようです。
7/29(月)福島テルサホール
でんでらキャラバン
おおたか静流 うた
熊谷 陽子 アコーディオン
松井 亜由美 バイオリン
浦山 秀彦 ギター
沢田 穣治 ベース
8/6 広島OTIS
「爆心地ライブ」遠藤ミチロウvo、g
嵯峨治彦 馬頭琴、児嶋佐織 テルミン、UPASKUMA、Wトシヤ(平安利也vo,g
小澤敏也per)
8/7(水) 大阪 ショビシュバ
恐怖映画クラブ
メストリトール ギターバイアーナ、山田やーそ裕7弦ギター、小澤敏也per
8/17(土)国立NO TRUNKS
PPS (E3)渡辺隆雄tp、臼井康浩elg、小澤敏也per
8/23(金)北海道新得町公民館大ホール
8/24 (土)新札幌サンピアザ劇場
おおたか静流&アジアンウィングス
おおたか静流(うた)
嵯峨治彦(馬頭琴)
田中峰彦(シタール)
田中りこ(タブラ)
居森やよ美(パーカッション)
児嶋佐織(テルミン)
佐伯雅啓(ウード、三味線)
小澤敏也(per)
8/26(月)渋谷 公園通りクラシックス
松本健一sax、福島久雄g,永塚博之b,小澤敏也per,
山田あずさper,池澤龍作Dr
8/27(火)は、抗がん剤点滴のために病院を受診しますが、あまりの疲労のために
治療が中止になりました。
歩行に杖を使うようになり、腹水がたまっているのがわかるようになり、
8月は、ジーンズではなく、紐式のエスニックパンツを着用していたのが、
9月になると、紐のしめつけが辛くなり、サロペットを愛用、
10月には、ユニバーサルデザインのパンツを
サスベンダーで着用するようになりました。
残り時間を考えて、広島、大阪にお別れを言いに足を運んだのと同じように、
8/29(木)には、ライブに出演する事なく、青春の思い出の地の福生に
お別れを言うために向かいました。間もなく運転ができなくなる事を察していての事です。
「チキンシャック」の前を通り、頭を下げていました。
8月から、自宅近くに借りて、郵便物の受け取りなどにも利用していた
楽器保管用のアパートを引き払うために、持ち物の処分をはじめていました。
「終活」という言葉をよく使うようになりました。
9月のppsの名古屋方面のツアーは、キャンセルしています。
9/14(土)VAMOS BRASIL
吉祥寺BAOBABU DuoRaiz(武石由起子vo、高田泰久g)小澤敏也per
西荻窪COCO PALM pps (渡辺隆雄tp、山田やーそ裕7弦ギター、小澤敏也per)
9/15(日)
吉祥寺ALUVOLADA DuoRaiz(武石由起子vo、高田泰久g)小澤敏也per
西荻窪COPO DO DIA 中西文彦g 小澤敏也per
この演奏が、公の場での最期になりました。
9/16(月)
同居をしている兄の子の甥、姪と一緒に市内のホールにて、
「がーまるちょば東京JAC」を観覧。家族のひとときを過ごしました。
9/20(金)
楽器用のアパートを引き払い、楽器の多くを自分の名前や出所がわからないように
業者に委託処分をしました。ステージ衣装などは、その前に処分をしています。
9月の冒頭も、ライオンキングに出演していたと記憶しています。
プロとして、途中で倒れる危険を感じた頃に、降番して、
10月いっぱいでレギュラーを降り、平キャストとなる決心をしました。
浜松町の劇場まで行くだけで体力を使い、2幕を終えると帰る気力がなくなるために、
赤字になっても、浜松町のホテルに一泊してから帰るという方法を考えて、
経費を計算していましたが、結局それは実現しませんでした。
10/7に他の病院にて、癌に対する「セカンドオピニオン」を受け、
腹水がたまっている事から、抗がん剤による効果がすでにもうない事がわかり、
「いよいよ最終ステージだ。今までも第四ステージだったけどね。」
10/11は最期に都心まで運転して、10/27に実施予定だったこどもむけの公演の
打ち合わせにむかいました。(写真)車椅子でも、できる範囲の演奏プログラムを
考え、段差のない会場をお願いするなど、
ユニバーサル対応を観客を迎える側ではなく、
演奏者サイドから、提案していました。
「こんな身体でも演奏できる準備と方法」と、
ライブハウスでの演奏から、福祉方面への演奏へシフトを考えはじめていたのかもしれません。
9/25のクアトロコーリス(さくらんぼ)
10/23の流浪祭り(スターパインズカフェ)は、歩行困難のためにキャンセル
10/4(金)youtube 最期の撮影をしましたが、こどもむけの演奏と、
メッセージのみで、パンデイロ演奏の部分は、
「世界レベルの演奏ではない」という本人の希望で、データごと削除しています。
10/12(土)幼稚園にて、園児の組み体操のために
ジェンベ演奏を行ったのが、
人前での最期の演奏となりました。
その翌々日、10/15に入院し腹水を抜く治療で
ダメージを受け、自力での歩行が困難になりました。
19日に退院後は、在宅治療に切り替え、
訪問看護士と実習生のためにビリンバウを説明しながら、
演奏した事もあったそうです。
自宅では、よくカリンバを弾いていました。
リハビリになるといいつつ、
カリンバの曲も、11/11にPCに遺しています。
最期まで演奏にこだわっていようとしていたわけではないと思います。
「演奏よりも、生きていたい。普通がいい。」
と、よく言っていました。
でも、11/15にパンデイロの曲をつくり、
多重録音をしています。
亡くなったのが18日なので、
結果的には、最期まで演奏していた、
という事になりますよね。
ねぇ。
皆さん。
「パンデイロは自分を映す鏡だ」
「身体の一部だパンデイロ」
「自分宗教」
いろんなキーワードを日々、言っていましたが、
ここのところ、よく頭に浮かび思い出すのが、
「死んでも革命を起こす」。
自分が死んだ後の事も、
シルクドソレイユのサーカス「コルテオ」を参考に、
「こんな風にライブに出てやる」
「きっと飛べるようになってる」
「葬式行列に上から参加してやる」
と、かなり具体的に話していました。
なんだか、本当に実行しているじゃない。
そう思える今日この頃なのです。
_ま