パンデイロヲタタケバ後記 映像編
「パンデイロヲタタケバ」にて、
最後の時間帯にご来場だったお客様方から、一番ご質問が多かったのが、
この最後の本人による「おわりのことば」の映像でした。
youtubeにあげてあるパンデイロウェブレッスンの7でも使用されているのですが、
小澤は撮影時に、
「俺が死んだ時に流すように、別のフォルダに入れておいて。」
と、大真面目に言いました。
2009年の秋口だったと思います。
当初、私は小澤敏也の助手を務められるような器ではとうていないと、
誰か代わりの人が見つかるまでのつなぎ役として、
ウェブレッスンの撮影を引き受けていました。
なので、「死んだとき」と言われても、
「死んだ時まで一緒にはいないと思うけどなぁ。」
と、思いつつも、小澤の指定した「デワサヨウナラ』と言った後に、天空を見上げるようなキャプションを彼のオーダーの通りに撮影をしたのです。
親しい友人やミュージシャン仲間には、
この「俺が死んだら」シリーズの発言をよくしているようだったのですが、
「パンデイロヲタタケバ」の映像の打ち合わせを担当の森谷さんとする前に、
兄の和也さんにこの映像を見せたところ、
なるほどの心あたりが、兄にはあったようなのでした。
川島雄三監督 フランキー堺主演「幕末太陽伝」
公開されていない幻のラストシーン。
川島監督の口癖で「サヨナラだけが人生さ」というのがあったようですが、
人生の中のサヨナラというものに、美学を感じていたようなのです。
森谷さんとの打ち合わせの前には、ナベさん、篤っちゃん、りかおちゃん、ゆかりちゃんにもこの映像を確認してもらいました。お客様の中には、この映像を見て、泣き出してしまう方もいらっしゃるかもしれないと思ったのです。
遺言とは言っても、かなり前の話ですし、すでに霊となっている本人ですら忘れているかもしれません。
でも、親しい友人たちは、こぞって、
「これは彼らしいからやろうよ。」
と、言ってくれました。
ご来場の皆さんは、「故人を偲ぶ会」にやってきて、まさか本人が「デワサヨウナラ」と言うとは思っていないので、ド肝を抜くことだろう。そうなれば、まさに、それは彼らしい、と。
当日に、ご来場の方々の反応を見ると、
場内、どっと明るい笑いが。特に、前にかぶりつきで見ていたパンデイロチームジングルジムの面々が大笑いしてくれていました。
やった!
そう思うと、その後に、少しだけしんみりと、
ほんのりとした空気が流れました。
私は、この映像が「あり」か「なし」かだけを考えていましたが、
つるさんが、ご来場の方々に最後まで笑っていただきたいという彼らしい思いやりを感じて、
皆さんは、ほろりとしてくださったように感じました。
「デワサヨウナラ」自体はとても短くて、
集中して「これからはじまる」と注目する必要があるので、前に継ぎ足し映像を加えるように、
提案してくれたのは、篤っちゃんです。
私のできる範囲で考えて、
映像打ち合わせの日は、コルテオのリハーサルも兼ねてミュージシャンが集結していたので、
「のんちゃん」(高校時代の呼び名)、「つるさん」(武蔵美、石井倉庫、こどもの城、でんでらキャラバン)、「ベクトル先生」(KING)、「とっちん」(家族)などの呼びかけのシーンをそれぞれの友人たちを中心に森谷さんに撮影していただきました。
ビデオグラファーの森谷博さんと、小澤との出会いは、
震災後の「でんでらキャラバン」の南三陸の津波被害へのキャラバンでした。
その後、2012年には、放射能被害地からの保養という焦点での「南会津」でのキャラバンに参加でも、
森谷さんは、ドラム缶風呂の火興しをこどもたちとする、素の姿もカメラにおさめてくださいました。
「でんでらキャラバン」が下北沢アレイホールで行った報告チャリティパーティで、その映像が流れると、小澤は、「俺がかっこ良く映っている。やっぱ森谷さんの映像はすごいなぁ〜。」と、
本当にうれしそうに気に入ったを連発していました。
森谷さんが演奏だけではない、彼の人柄をも映像で表現できたのは、
きっと、森谷さんの屋号「旅する木」にもヒントがあるのかもしれません。
まるで、つるさんと一緒に旅を今もしている。という時間の流れが、
つるさんの痕跡を求めて画像の前に釘付けになっている大きなお友達や小さいおともだちに、
伝わっているような情景でした。
とりとめのない私たちの話を、真摯に受け止めてくださったビデオグラファーの森谷博さんに、
感謝をこめて。