パンデイロヲタタケバ 美術班篇
「パンデイロヲタタケバ」の構想を話し合う当初から、
亮さん(パーカッショニスト渡辺亮)は、ずっと写真を展示しつつ、故人の思い出を語るコーナーについて、一貫して熱く語っていました。
それが、皆様にお知らせする方法の話や、予算の話や、いろんな具体的なプランを話している時でも、
亮さんの頭の中には、写真をアナログ的に切ったり貼ったりする方法が頭から離れることはないようで、
それはいつのまにか、
「美術班としては・・・。」
と、亮さんは、それを率いるチームの代表のような立場で発言をするようになり、
『亮さんの頭の中では、武蔵美サンバのみんなが手伝ってくれるイメージなんだろうなぁ〜」
と、兄、姉、私といった内輪の茶飲み話のような打ち合わせでさえ、学級会のように挙手をして発言している様を微笑ましく拝見していました。横では、ノリさん(亮さん夫人)も、ニコニコしながら見守っていました。
亡くなる年の秋には、小澤は本来ならば、亮さんもいっしょに「ANA協賛 ガドガド ジュネーブ公演」に参加する筈だったのですが、長時間飛行に耐えられないという事でドクターストップがかかり断念しました。小澤は12年の間、毎年ジュネーブで公演をしているので、現地にも知り合いが多く、亮さんは、パーカッションパートの小澤が抜けたパートを埋めつつ、空き時間には小澤の知り合いを訪ねて、Tシャツに寄せ書きを集めてまわってくれました。
体調が良い日には、亮さんのアート作品の「木霊」をたくさん持って見舞いにきてくれ、それを重ねて「森」をつくって小澤の心を癒してくれた亮さん。
亡くなった翌日の日は、ジェンベのメンテナンスを手伝うと、一日をあけておいてくれた日でした。
「亮さんの演奏をあんまり聴いちゃうとさ。俺は亮さんの真似をする人になっちゃうから、
あんまし聴きすぎて影響をうけないように気をつけなきゃね。」
パーカッショニストとして慕うだけではなく、
19歳の小澤がアルバイトニュースの「武蔵美サンバ研究会部員募集」の記事をみて、
電話をかけて応対をしてくれた時から、
「あ、この人が好き」
と、思ったいうのですから、亮さんの事が小澤はとても大事に思っていたのは、間違いがないのですが、でも、小澤が亡くなった後に、亮さんから、
「ツルが、自分が癌だと打ち明けてくれた7/1の夜のこと」
などの話を伺うと、それは決して一方通行ではなく、
互いの信頼があった事が伺えるのです。
亮さんは、「パンデイロヲタタケバ」の主催者のひとりでもあります。
武蔵美サンバや、高校卒業後、小澤がアルバイトをしていた石井倉庫の関係者の皆さんにも、亮さんが多数声かけをして、この日に集結をされ、大切な人との別れの時間を共有されました。
人数が多くなってしまったので、急遽、1階のギャラリーを借りることができました。(赤松隊長、ご尽力を感謝いたします。)
(以上、上記の撮影 メンゴさん)
当日、美術班には、武蔵美サンバから大塩美香さん、サンバチームピーラジールとも縁の深い「国分寺プー横町の店」より、山田麻貴さん、市川ミコルさん、かしわぎゆきこさんなどがスタッフ参加。そして、もちろん、亮さんといつもいっしょのノリさんも。
「亮さんに会っていなかったら、極悪人になってた」
亮さんに出会ったことで、楽器で自分を表現する方法を見つけられたという事なのでしょうか?
広島にて、小澤にパンデイロをはじめて教えてくださった大峰宏明さんに、武蔵美サンバ研究会の立ち上げの話も伺って、
今回のお問い合わせ先を仰せつかって、電話で問い合わせをしてくる方は、だいたいが美術関係者の方だったので、
平凡に音大を出て、教員生活を送っている筆者にとっては、
「なんだかみんな亮さんみたいだ」
と、思えるような共通したおおらかな空気感を感じ、
「これが小澤を○○にしなかった包容力なんだなぁ〜」
と、ちょっとだけ理解が進んだ気持ちになったのでした。
最後の写真は、筆者が撮影した「亮さんが寝ないで作成した写真アートの表紙」と亮さん。
「亮さんはい〜な〜。これがあるから」
と、いざとなったら作品をつくったり、絵を描いたりしてイメージを伝えられる亮さんには、とてもかなわないやという顔をしていた小澤ですが、
「つるさんは、サッカーをするみたいに集団で音楽をするのが得意じゃない。パンデイロチームだって、何個もつくって自分でバツカーダつくって、指揮して、指導して、誰もやらないパフォーマンスやってるじゃない。」
そう言うと、
絶対に否定をしない真顔が返ってくるのでした。
亮さんがあって、
俺がいて。
亮さん、スタッフの皆様。
美術班、お疲れさまでした。
写真をご提供いただきました方々、厚く御礼を申し上げます。