PANDEIROCKER への道 オフィスジングルジム篇
名古屋のピカイア祭りにて、ホームページ創設にあたってお世話になった皆さんにお会いできました。
2009年ホームページ創設イコール、小澤敏也オフォスジングルジム誕生で、 「いよいよ俺も助手が必要なパーカッショニストになった」と、 小澤の成長のポイント地点になった時期だと思っています。 私サイドからみれば、 時々音楽大道芸をしているけれど、ごく普通の幼稚園園長だったのが、 いきなりプロミュージシャンの手伝いをする事になってしまった物語のはじまりでもあります。
1990 年に小澤と出会った「こどもの城」や、助手として同行したイベントやライブ、 共同講師をしたワークショップや、「でんでらキャラバン」「アジアンウィングス」「楽団ぺとら」関連の人のつながりの中では、 私も自分自身のつながりとして、おつきあいをさせていただいていますが、 PPSを中心とした地方遠征では、なかなか顔あわせのチャンスがなかった方も多く、小澤が亡くなって死後の報告をさせていただいていることで、 初めて小澤が東京で自分をサポートする助手を置いていた事を知った方もいたと伺いました。
ただ、最近では、そんな方々からも、 「ウェブレッスンを撮影した人」 「パンデイロック、パンデイロマンの人」と認識していただき、お声がけを頂戴する事もあり、 認めていただきありがたく思っています。
小澤のライブに同行させていただくのは、「楽器を大量に使う日」「ジングルジム等、自分のメンバーが出演する日」「バンドではなく小澤敏也個人のオファーの日」等、特別な場合のみでしたが、小澤には「俺の死んだら連絡をして欲しい人には、だいたい会ってる」といわれ、それは、彼が葬儀連絡用のリストを書いた日に、「本当にそうなった」と思いました。
小澤の筆ペン描きのフライヤーでは、拡大縮小を(小澤はコピーはできるのですが、機能操作ができませんでした)、その他のPCで仕上げたもの、ワークショップのテキスト等は、全てオフィスジングルジムで製作をしています。
HPの管理と更新(更新は、小澤が自力でやる時もありますが、たいていは電話で口述、または携帯メールでテキストが送られてきます。小澤はリンクを貼る作業が苦手でした) 共演されたミュージシャンの方々から、アーティスト写真をお預かりする送付先、音源をMACのパブリックフォルダで受け取ったものを、CDに焼いて、小澤のiPhoneに入れるところまでも担当していました。
プロのミュージシャンの流儀もわからない事が多く、 手探り状態のまま現在に至っています。
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本ホームページがオープンしたのが2009年11月。
その前の小澤の誕生日、5/28くらいから、このホームページを作ろう!構想ははじまったと記憶をしています。
もちろん、その頃はまだ私は助手ではなく、それでまでの「こどもの城の後輩」としての関係から、 近く、一緒に楽団「ぺとら」にも加入してもらうにあたり、それまでよりも少し頻繁に会っているくらいでした。
「PANDEIROCKER」という造語を、一番最初に話してくれた時の事は鮮明に覚えています。 「俺、今度、パソコン、買おっかなぁ〜」 くらいのノリで、地元のビックカメラをウィンドウショッピングしていました。
「パンデイロッカー。」 私の顔をみずに、不機嫌な犬みたいな目をして、唐突に言い出しました。
当然、聞き返すと、
「パンデイロを使って、俺、ロックをする人だからさ。パンデイロッカー、おかしい?」
と聞くので、
「自分で考えたの?」 と聞き返すと、
「そんなバカなこと、俺以外に考える奴があるか!」
というので、「それもそうだね。」と、その時には話はおわりました。
話はさかのぼって、それより少し前の事です。 当時、自分用のホームページを持っていなかった小澤は、携帯から更新でいる「パンデイロヲタタケバ」を主に告知に使用していました。
名古屋では、いち早く、岩田舞海さんを筆頭に、小澤を支援する人々の輪があって、そんななかに、柚木美里さん(前記事で紹介したその後、アートでの支援をしてくださる事になる)から、こんな事を言われたそうです。
「小澤さんは、変なんだから、もっとその変を際立たせるために、もっと変な格好をした方がいい」
その後、「変な格好の服」を求めて、ブティックを巡ったそうなのですが、どう変がいいのかわからなかったところ、 PPSのツアーで北海道に行き、古着屋さんで、「セーラー服」と「アメリカ国旗ラメベスト」の2点を嬉しそうに買って帰りました。
このうち、セーラー服に、皮手芸作家であった母のヒロコさんの作品のバラのペンダントをつけて、 カメイヒロタカさんに撮影をしていただいたのが、HPのフラッシュ映像の写真です。
「俺って、変だけどさ。カメイさんに撮ってもらうと何故かかっこいいんだ。」
7/22に、名古屋トクゾーにて、ご来場だったカメイさんご本人に、この話をお伝えする事ができました。
この時点では、まだ小澤は自分のパソコンを持っていませんでした。
パソコンを買いにいくところから、このホームページへの道のりははじまっているわけです。
パソコンを買った後くらいでしょうか? 今度は、「パンデイロウェブレッスン」の構想を聞かされ、 自分で撮影するというので、またまたビックカメラにカメラを買いにいくのをつきあいます。
まり「これは画素数が少ないんじゃない」
つる「ガソスウって何だべ?」
うっかり口だしをしてしまったために、
「じゃ、まりちゃんが撮って」
と、ウェブレッスンの撮影、編集、アップロードまで担当するyoutubeのアカントbutanomaririnが誕生する事になりました。 (パソコンを持っていないため、何か情報を得たい時には、わざわざ楽器屋に行き、音楽系の雑誌に広告欄がでていないかをページをめくって捜していました。野生の目を持っていた分、老眼がきつくて、ほとんど広告の文字のフォントが読めずに苦労をしていたようです。携帯を読むのにも苦労をしていたので、この少し後に当時ソフトバンクのみだったiPhoneに機種変更して、ピンチアウトで拡大して字が読めるようになりました。同じ頃、かたくなに抵抗をしていたsuicaも購入し、ライオンキングへの通勤に切符を買う事がなくなりました。アナログ小澤が少しずつ変わってきた頃です。)
『ジングルジム』という言葉を聞いたのは、 東京、府中の飛行場に、プロフィール写真を撮影に行ったときのことです。 「ジングルを鍛えるジム」という意味で、「ジングルジム」を作るために、メンバー募集のフライヤーをつくるためです。 アーティスト写真用のロケーションを捜していると偶然「ジャングルジム」遊具があったので、 それに昇って、「メンバーが集まるといいな」と、いう顔をして撮影をしました。
「ジングルジム構想」というのが、本人曰くジャニーズ帝国のように展開する筈だったそうで、 先鋭のメンバーがライブで演奏するチーム「JINGLE-GYM 」。 そこに入る事を目的とした初級者用の養成期間「ジングルジム サテライト」。 (これは、高円寺に移動するときに、名称のわかりづらさから「小澤敏也パンデイロ教室」と名称がかわっています。)
そして、こども向けのブラジリアンパーカッションワークショップから、私が専門のリトミックをとりいれたワークショップも展開する二人だけのユニットと、 芸能事務所として、小澤がお世話になった方にお花を送らせていただく時などに使う肩書きとして、 「オフィスジングルジム」という会社のような名前を私にくれました。
場所場所によって、「マネージャー」と呼んで頂く事もありますが、 仕事として関わっているのは助手の役割だと思っています。
小澤敏也がいて、はじめて身を置かせていただく現場がたくさんあり、人生の経験値をあげていただきました。
ウェブレッスンの撮影がひとつの区切りがつくと、 今度は、自主公演「小澤敏也ナイト」がはじまりました。 小澤敏也ナイト公式ブログについては、 近々に予定されているホームページリニューアルのタイミングで閉鎖をします。 コメント覧など、必要な方は保存をお願いします。 今度は、私の主催する楽団「ぺとら」としても、演奏で小澤企画の参加ができました。 俳優のようにステージに立ちたいという思いが強くなってきた頃だったので、 「小澤敏也ナイト」「ブラジルサーカス」では、フライヤー、アート、衣装のスタイリングも含めて、オフィスジングルジムのワークとさせていただきました。
衣装は、高円寺NAKAYAのベルボトムが代表的ですが、 下北沢の古着屋も随分とまわって、ジングルジム4に強制的に着てもらった事もありましたね。 小澤の衣装を選ぶ時のポイントは、「いかに汗を目立たなくするか?」なので、 吸水速乾素材のシャツをユニクロで買って、ユザワヤで装飾を買って、装着したもののありました。 この辺りのお手本は、小澤が「心の師」と呼んでいた「おおたか静流&アジアンウィングス」のリーダーの広島のオーティス・佐伯雅啓さんのこだわりの姿勢を見習ってのことなので、佐伯さんが衣装に選びそうな「チャイハネ」に足を運ぶと、「佐伯さんの選びそうな色やね〜」と、頭の中でスタイリングをしていました。 さて。 表題させていただいた「PANDEIROCKERへの道」とは、先日の名古屋ピカイア祭りでのゼジさんの講演名なのですが、 私にとっては、2009年より小澤敏也と歩んだ道そのものを表す言葉です。
皆さんご存知だと思うのですが、「ピカイア パンデイロ スペシャル」のピカイアは、小澤がこの太古の海の生物から名付けたものです。
(2/3パンデイロヲタタケバでは、私が司会進行の大役を乗り切るために、衣装に縫い付けさせて着用させていただきました)
パンデイロヲタタケバにご来場いただいた皆様にお分けした形見分けのキーホルダーには、小澤の人生を色分けしたデザインのパンデイロッカーがありました。 その中で、「黒」とあったのが、2007年にお母様を亡くされた直後、喪失感からライブ活動を控えていた頃の事です。
でも、その直後には、小澤敏也の後期の人生にかかせないキーパーソンのおおたか静流さんとの出会いもあり、黒は黒なりに、大事な準備の期間だったのでしょう。
47歳を迎える誕生日前には、 「あと数年で50歳。今のスタイルで演奏できるのは60歳までだろうから、60歳になったらきっぱり引退する。無様な姿は人に見せない」 と、何か決意のような事を言ったなぁ、と思うと、
あっという間に、 「パンデイロッカー」
「ウェブレッスン」
「パンデイロチーム・ジングルジム」
「ジングルジム・サテライト」
「オフィスジングルムでのワークショップ事業」
という道筋をあっという間に組み立てて実行に移すための指令を出してきました。 小澤が私と一緒にいる時間のほとんどは、 楽団「ぺとら」や、即興演奏を主とする「小澤敏也DUO」用の音楽製作をする事に費やしていたので、 オフォスジングルジムとして、彼をサポートする内容を指示されるは、たいてい帰り際、 白い楽器運搬車の運転席に乗り込んだ後に、 「これと、これ、やっといて。○○さんから写真くるから」 と、言われるくらいの事なのですが、積もり積もって、それが人とつながらせていただく事になりました。
癌がわかってから、 他の方には告知をしないと決めてからは、小澤の「もうすぐ治すから。完全復帰するから」という嘘を陰から見守りました。
余命宣告もされているのだから、後々の事を考えると、うっすら感じられる程度で良いものを、壮大に健康を回復する予定だと吹聴をするので、 ヒヤ汗をかいていました。
でも、戻ると、
「あの嘘はね。俺の夢だべ。そうなったらいいな。癌が消えちゃえばいいな、って、口に出すとそうなるかもしれないべ。」
1990年に29歳だったつるさん(小澤のこどもの城での愛称)から、うつらうつらと細いおつきあいをしていて、
2007年から、少しずつ距離を縮めて音楽の話を再びするようになり、
2009年から楽団に加入をしてくれた事から、音楽製作をともにするようになったついで、彼の個人事務所としてもサポートをするなかで、 最後期は、友人として、仲間としてよりも、人としてやらなければいけないという気持ちで、ご家族の介護サポートの一員に加えていただきました。
身の回りに「死」について学ぶチャンスが今までの人生ではなかったので、 人間は死を迎える時には、全ての凡念を捨てて、雄大なインドの情景のようなものを頭に描くものなのではないか、とイメージしていたのですが、
小澤は死ぬ数時間前まで、兄とテレビでサッカーを観戦し、あいかわらずのうんちくを言っていました。
そして、「○○さんの演奏はさ〜」と、ミュージシャンらしい日常会話を、激しい痛みをこらえながらですが、 いつものように私に投げかけていました。
今まで経験した事のない痛みがやってきて、看護師さんを呼ぶ事になったので、私は一旦帰宅をさせていただいたすぐ後に、死亡が確認されたそうです。
末期癌患者として、施設で管につながれる事はなく、自宅で兄とサッカーを観戦し、助手の私に音楽の話をしながら、旅立つ準備をしていたようです。
「人生でふたつの事しかしていない。音楽とサッカーと。」
と、彼の遺した言葉と同じ状況を最後の場でも貫きました。 だから、 私、助手になってよかったのですよね。
皆さんに愛されていた造型派パーカッショニストが、最後まで音楽の事を考えて逝けた事に貢献できたのだと、自分では納得しています。
2009年に、ジングルジム構想を話してくれた時に、 小澤は想定外の事を言ってきました。
「それじゃ、まりちゃんは、俺の事を何って呼ぼうか?次に会う時までに考えておいて。」
こどもの城で初めて出会ってからその日までの19年の間、私にとって、小澤は「つるさん」でした。
今更、呼び方を変えろと言われても困ると言うと、
「まりちゃんの一番、呼びやすいいい方でいいからさ。」
仕方がないので、「トシヤ」という名前の園児がいたら言いそうな愛称で、呼ぶ事にして、 ご家族や、亮さん等身近な人のみの場や、二人だけの業務の時にはそう呼ばせてもらっていました。
「KING」では、「ベクトル」。「高校〜青春時代」では、「のんちゃん、ノリちゃん」と、武蔵美サンバ、こどもの城、でんでらキャラバンで言われている「つるさん」の他にもいっぱい呼び名があったのも、小澤敏也の他の人にはない特徴だったと思います。
助手の業務の中には、最期期にはワクチン注射なども挿入されて、つるさん29歳、まりりん23歳の頃には思い描かなった状況にはなったけれど、
一人の音楽家のギラギラとしていて、太鼓を叩くために血がいつも出ている大きな掌から、おだやかで柔和なお爺さんのように小さい手になったところまでを側で見届けるという大役を務めさせていただきました。
小澤敏也が助手に遺した使命には、実はこの後、二つが遺されています。
ひとつは、 彼の言葉どおりに言えば、
「東京オリンピック(7年度2020年)の年になったら、世界中で観られているパンデイロウェブレッスンの視聴者が、小澤敏也の痕跡を訪ねて来日するかもしれない。その時に、ちゃんと俺を説明してくれろ。」
と、楽器や著作物、自筆の原稿などの資料の管理を含めて、ご遺族と相談した範囲で、現在も助手として管理させていただき、小澤の遺志の「こどもたちに楽器を鳴らしてほしい」によって、私のリトミック指導に活用させていただいています。(小澤は、このために、私に管理できないものについては、全て産廃業者に処理を委託しました)
ウェブレッスンのアカウントbutanomariirn、本ホームページのpandeirocker.jpのアカウントも私が所持し続けるために、今後はリニューアルを予定しています。 (もし、ウェブレッスンやウェブレッスンに関連したワークショップ等を無許可で公でイベント等にする事により、私が管理しきれなくなった場合は、他のパンデイロを教える事を職業にする人に迷惑をかけないために、アカウントとデータの削除を遺志としています。関係者の皆様におかれましては、自筆テキストの二次使用は固くお断りいたします。小澤のテクニックについては、パンデイロチームジングルジム柳元武司(本ページより練習会日程場所が告知されています)もしくは、後継者として認定しているハセタクにご連絡ください。小澤敏也のiPhoneは、兄和也が未だ所持しており(2014、7月現在)、Pandeirocker.jpアドレスは、私が管理をしておりますので、こちらからもおつなぎする事は可能です。
ふたつめは、
「自分の死後に、自分の目となり、耳となってほしい」とのことで、
彼独自の研究と作法によって、指示された小道具によって、このミッションもなんとか実行中です。
小澤の霊の指示に耳を傾けながら、
彼が見たいであろうものを見て、聴きたいもののために足を運んでいます。
シーノ・タカヒデ
MAISHA『旅の記憶』
にも行ってきました。
小澤は、見てくれたでしょうか?
感じてくれたでしょうか?
PANDEIROCKERをサポートすると決めてから、思いもがけないいろんな体験や人との出逢いをさせていただきました。
今後も、それは、つながり続けていく予感がします。
小澤敏也とつながってくださった皆様、
今後とも、本ホームページ、及びオフィスジングルジムについて、よろしくお願いいたします。
小澤敏也のアーティスト写真などは、生前と同じく、こちらから提供させていただきます。
撮影者の名前を記述が条件の場合もありますので、お問い合わせいただければ幸いです。
写真は、2009年10月。東京、府中市郷土の森博物館近くの公園にて、
ジングルジムメンバー公募のフライヤーのため、
「ジャングルジムに昇って、物を想う俺」の写真です。
まだ、髪をヘナではなく、黒で染めていた頃、
コンバースのハイカットシューズを履いていた頃、
ジーンズのサイズは、売っているのを捜すのが大変なほどタイトでした。