ピカイア・パンデイロ・スペシャル ファイナルツアーin釧路開催に寄せて

ピカイア・パンデイロ・スペシャル ファイナルツアーin釧路開催に寄せて(釧路・佐竹直子)
小澤さん。
見えますか?ポスターができましたよ。(2014年10月5日 19時開演)
数えてみたら、2000年から2012年まで、12年間も毎年、釧路にみんなで来てくれていました。

ピカイアの釧路ライブは、私と渡辺隆雄が大学時代に親しい友人だったことを知った、釧路のジャズ喫茶「ジス・イズ」のマスター小林東さんが、「2人の再会ライブをジス・イズで開こう」と提案してくれたのがきっかけでした。

私は、札幌での大学時代、渡辺が所属するサッカーチームのマネージャーでした。釧路で10年ぶりに再会した渡辺の横には、ブラジルのサッカーのユニフォームを着て、坊主頭の小澤さんがいました。

私は、渡辺がプロになってからの演奏を聴いたことがなく、ピカイアの音楽も知らず、最初のライブは、とにかく友人を集めました。
「トランペットとパーカッションのユニットって、どんな音楽なの~」。みんな首をかしげながら集まってくれました。
小澤さんのパンデイロがなり始めた瞬間、みんなぶっ飛びました。だって、アタシたち、タンバリンしか知らなかった(><)
何これ??

椰子の実に弦張ったみたいなその楽器はなに?なんなの、その不思議な音は??
ビリンバウもみんな、初めて聴きました。一同、口をポカ~ン。私も渡辺との再会を喜ぶ前に、2人の音楽にぶっ飛びました。
あの日、集まってくれた人全員がそうでした。

ピカイアは、釧路の私たちに、今まで知らなかった音楽を、教えてくれました。

そう。小澤さんは「教え好き」でした。
釧路のみんなは、パンデイロもビリンバウも珍しいから、よく「鳴らしてみたい」「どうやって演奏するんですか」と、小澤さんの回りにはいつも人が集まりました。すると、すぐにパンデイロ教室が始まります。
ライブの休憩時間でも、打ち上げの時でも、ライブ後の撤収作業中でも、ミニ・パンデイロ教室を、小澤さんは、惜しみなく開いてくれました。小澤さんのおかげで、釧路にパンデイロ人口が一気に増えたと思います。

ライブの前日に、サンバ教室を開いたこともありましたね。空き缶や、ペットボトルに小豆を詰めたりした手作りパーカッションを持ち寄って。子供たちや、家族連れも参加してくれて。みんなでジャカジャカやりました。楽しかったな~(^0^)

熱心な小学生の女の子が、翌日の夜のライブのアンコールで飛び入りで演奏してくれたのを、小澤さんがとっても喜び、彼女に思わず、愛用のアゴゴをプレゼントしちゃったこともありましたね。
小澤さん。あの時、小学5年生だった「にいな」は高校生になりましたよ。今も音楽は続けています。

釧路のライブとセットで開いていきた、弟子屈町の辻谷商店でのライブは毎回、最後は店主の辻谷君とはじめとする、地元の打楽器奏者たちとの共演で盛り上がりましたよね。

2012年のアンコールでは、ジャンベばかり小澤さんを含めて6人並ぶ「ジャンベ・オーケストラ」になりました。みんな小澤さんの指揮で演奏して、うれしそうだったな~。しかし若者たちが叩く太鼓の音は、デカイ。もう渡辺のトランペットも、やーそさんのギターも聞こえない。2人も半分うれしそうに苦笑いしてましたよね。

小澤さんは、打ち上げに参加してくれた人たちと、じっくり語り合うことが、多かったよね~。音楽談義でもなければ、軽い雑談でもなく。
夫婦の問題や、親の介護や看取りについて…とか、「人間」としてのとっても深い話をじっくりしていることが多かったなぁ。来てくれたお客さんや、支援してくれている人たちを「ファン」じゃなく、友人として見てくれていたのだよね。それが私はとてもうれしかったです。

小澤さんが仲良くしてくれていたバーのマスターのお母さんが亡くなった年、小澤さんはその店での打ち上げの席で突然立ち上がり、「秀康君のお母さんにささげます」と言って、ブラジルの祈りの歌を歌ってくれました。ジーンと心に響きました。

私は、ピカイアを迎えてきた12年間の間に、とてもつらい時期がありました。もう、生きているのもいやだと、愚かなことを思ってしまったこともありました。でも、「私がいなきゃ、ピカイアライブができないじゃないか」と思い頑張りました。

それから数年後、ライブが終わり東京に戻る途中のフェリーの中から小澤さんがメールをくれました。「今年は、直子ちゃんがふっくらして元気になっててうれしかった。一時期どんどん痩せて死んじゃうんじゃないかと心配してたから。安心したよ」

小澤さん。つらい時期にはずっと黙ってたけど、ちゃんと見守ってくれていたのですね。うれし泣きました。よし、来年はもっと笑顔で迎えるよ!って思えました。

私たちのライブ、いやピカイアのライブをずっと支えてくれたジス・イズの小林東さんが、2012年9月のピカイアライブの一週間後、脳梗塞で倒れました。

動揺した私は、小澤さんにメールで連絡しました。「お願いがあります。東さんに向かってパンデイロを叩いて下さい」と。
小澤さんは、ライオンキングの出演前だったにも関わらず、すぐに公園に飛び出して釧路の方角に向かって、パンデイロを打ち鳴らしてくれましたよね。

小澤さん。パンデイロの響き、しっかり届きましたよ。
東さんは、ゆっくりですが回復に向かい、今はおうちでリハビリに奮闘しています。

私は、もともと渡辺が友人だったので、ふだんは渡辺が連絡の窓口で、東京にいる時の小澤さんと直接やり取りすることは、あまりありませんでした。あっても、私からの問い掛けに、小澤さんが答えるパターンでした。

でも一度だけ、小澤さんの方から私に連絡が来たことがあります。

去年の8月。「新得にライブに行くんだ。直子ちゃんこれない?来てくれたらうれしいな」

でも、北海道は広く、釧路から新得は片道3時間。私は次の日の早朝に仕事があり、夜の運転に自信がないこともあり「ごめんなさい」と答えてしまいました。小澤さんからは「そっか。遠いよね。残念だけど無理しないで。元気に仕事頑張って」と優しい返事が戻ってきました。

小澤さんの訃報と同時に、小澤さんが自分の病状を認識していたと聞き、ハッとしました。
小澤さん。あの時、私に「今まで釧路で迎えてくれてありがとう」って挨拶してくれようと思って、最後に顔を見せてくれようと思って、連絡をくれたんでしょ?

私は、小澤さんが体調が悪いことは知っていたのに、まさか、そんな重い病とは思わず、「また会える」と軽く受け止めてしまいました。顔が見たかった。行くべきだった。悔やんでも悔やみきれません。

小澤さん。ホントに鈍感でごめんなさい。

そんな鈍感なアタシに、小澤さんは宿題もくれましたね。闘病中の2013年9月に小澤さんから届いたメッセージを、訃報を聞いてすぐに思い出しました。
あれがは、私からのメールへの返事でしたが、そこには、釧路で出会った仲間たちや、今までのライブへの感謝の思いが、お世話になった人の名前も入っているのに、私のことはひと言も書いていませんでした。その時は「なんか寂しいなあ…」とも思ったけど、あまり気にしていませんでした。

小澤さん。あれは、いつか「その日」が来た時に、釧路のみんなに見せてくれーと私に託したメッセージだったんでしょ。私への私信じゃなかったよね。

「釧路のピカイアマネージャーならきっと気づく」と預けてくれたんでしょ。

ちゃんと気付きました。あの日、泣きながらFBに小澤さんからのメッセージをアップしました。

小澤さん。伝えたからね。

釧路のみんなへの感謝の言葉、残してくれてありがとう。準備しておいてくれて、ありがとう。

今回のライブのチラシにも、一部を載せたよ。

小澤さんが、最後にくれた釧路のみんなへのメッセージをここに紹介します。
小澤さん、ピカイアのみんな、ピカイアを支える全国のみなさん、
そして釧路のみんな、12年間、ありがとう。
 

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釧路は大切な場所です。
みんな大切な友達です。
木嶋さん、亮さんは同い年ですからね。
三人三様の生き方に思いはありますね。

フィッシャーマンズワーフ、ジスイズの前の公演、道東管隊との野外演奏など
イベントも楽しかった。

ジスイズは強烈な空間でした。
一音たりとも気を抜いた事はないと断言できます。
自分の中でのベストな演奏を上げると上位はすべてジスイズのものになるでしょう。

あんな演奏はもうできないなあ~。
無茶苦茶攻撃的でしたもんねぇ。
集中力も高く、体が自然に動いていましたからね。
奇跡の演奏でしたね。

これからはちがった自分を探さないと。
病と向き合って見えるものは何か。
心の奥深くを感じて生活しながら、その次に音楽ですね。
どんなふうになるのでしょうか。
自分でもまだわかりません。

小澤敏也10508444_691216690949693_37787419_n 10501341_691216870949675_2137016832_n

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