こどもの城ファイナルとパンデイロマンと
まずは二つのご紹介をしますね。
まずは、パンデイロマン。
これは、生前から小澤敏也が筆者とともに活動していた楽団「ぺとら」の本番を欠席するときに、
告知の中で、
「パーカッション小澤敏也は欠席しますが、代わりに『ぱんでいろマン』が、登場いたします。」
として、本人が使用していたもので、
もともと「小澤敏也の代理」としての機能を果たしていたものです。
特に、2011年の「こどもの城秋祭り」での4回公演では、小澤がいない「城公演」は、初めてだったので、
搬入や運転、エレベーターの混雑予測などの引き継ぎを他のメンバーと入念にした上に、
「ぱんでいろマン」で、
「俺がやりそうなこと」を伝授をしてもらった思い出があります。
パンデイロマンは、浅草サンバカーニバル出演の時には、「インペリオドサンバ」のチームカラーTシャツに着替え、
そして、今回は、福澤達郎がバルセロナで買ってきたサッカーチームのグッズ(ポーチ)から、リメイクをして、
衣装をつくりました。小澤は、ヨーロッパに行くと、必ず、ご当地のサッカーショップに足を運ぶので、
福澤が、そう行動したようです。
(撮影 ほにゃ〜)
(撮影 ほにゃ〜)
もうひとつは、2014年の浅草サンバカーニバルにて、インペリオドサンバより出場のパンデイロッカーズ「パンデイロ隊」アーラを先導するジスタッキとして、筆者が背負った「グランヂパンデイロ」(命名 渡辺亮)。
これは、ジングルジムメンバーの玉井正剛さんの製作作品なのですが、
その役目を終えた後は、小澤の楽器を保管している場所に設置をして、新たな役目を果たしています。
さて、
前置きが長くなりましたが、
この2/1をもって、小澤敏也が1988年から2013年に没するまで、契約を更新しつづけていた、国内唯一の国立の児童センター「こどもの城」が閉館をしました。
(撮影 ほにゃ〜)
1/31には、楽団「ぺとら」が、2/1の最終日には、「ガドガド」が、公演をおこなったのですが、
それぞれに、「パンデイロマン」が登場しました。
ぺとらでは、ガドガドでも小澤と供にいたキーボード担当福澤達朗(ジャワガムラン演奏家、作曲家)が、ペダルで操作をし、ガドガドでは、前回のGW公演と同じく、親友の渡辺亮がペダルを踏みました。
(撮影 小澤和也)
ガドガドのステージでは、「グランヂパンデイロ」も、
小澤のいつものポジションのドラムセットのところに、
そこにまるで小澤がいるがごとくの高さで設営されました。
(ドラムスは、もうひとつ別に設置されていました)
そこで、ひとつ、奇蹟がおきました。
突然、亮さんが、「パンデイロマン」を手にとって、本来のパペットのように仕様して、
カウベルを鳴らさせたのです。
実は、前々から、亮さんの夢の中に小澤が出現して、その方向を示唆するような出来事もあったそうです。
通常は、もし人形を持ちながらカウベルを叩くなら、人形にスティックを持たせるものなのかもしれませんが、
「パンデイロマン」は自らカウベルを持ち、亮さんに叩かせるという感じで、
観ているものにとっては、二人で一緒の共同作業をしているように見えました。
1/31には、亮さんにとって、とても大事な「サンバ講座」の生徒発表もあり、
その時にも、亮さんは「パンデイロヲタタケバ」の小澤の形見分けのキーホルダーを身につけていました。
ガドガドの公演終了後は、「ガドガド」の公演のスポンサーであるANAの皆さんが、メンバーを迎えてくださいました。
ジュネーブから、小澤が亡くなる二日前に本人が強く望んでお会いしたANAのアベルさんも、ガドガドの応援にかけつけてくださり、小澤の姉、兄家族と対面しました。
ガドガドメンバーとANAの皆さんとの集合写真に、「パンデイロマン」も一緒におさまりました。
途中で亮さんが気づいて、とりに戻ってくれたのです。
そして、
閉館時間をむかえる時は、
小澤兄の家族は、アトリウムでの合唱を聴き、閉館の瞬間は、音楽事業部のバックヤードにて、
「嫌だ、帰りたくない」と駄々をこねているお子様に、やさしく向き合ういつもの職員さんの声を聞きながら、
「ここに敏也がいたら」といういろんな思いを話ながら迎え、
車の中から、職員の皆さんが来館者を見送る列をつくる光景を、
兄が持参した「翁長巳酉さん作成の小澤敏也ぬいぐるみ」にそれを見せながら、
城をあとにしました。
このように、いろんなものに小澤の目になってもらって、霊体となった小澤に発信しようとする身内の考えは、晩年に陰陽師の研究をもとに、独自の死後感を伝えていた小澤の影響です。
「俺の体がなくなっても、なるべくいろんなものを見たいから、何か目になるグッズを持って、見せてくれ」
福澤達郎は、バルセロナへの演奏旅行の折りには、「トルコの魔除けの目」のお守りをその目にしたそうです。
そして、城の閉館の翌日は、
渡辺亮夫妻と筆者は、小澤の墓前に、これらの報告に向かいました。
そして、いつものように、
小澤の楽器の保管してある場所で食事を済ますと、亮さんが、この場所のシンボルとしての看板を描いてくれる約束を果たしてくれる事になりました。
実は、このお願いは、かなり前からしていたので、
その当時は、小澤の遺言通りに、
「お城」と描いてもらう予定でした。
「こどもの城の閉館を俺は見届ける事ができないかもしれないから、遺した楽器に皆が会いにきてくれる場所をつくって、そこをみんなのお城にしよう。」
でも、「こどもの城ファイナル」を経験してみて、
「お城」は、やっぱり「お城」なのだと。
最後まで、こどもたちのたちに力を注いだ職員の皆さんへのリスペクトの気持ちからも、
とてもその言葉を小澤ひとりのために使えないと、気持ちがゆらぎました。
お墓からの帰路で、亮さん夫妻と私で、いろんな案を出したあと、
亮さんから、ひらめきが降りて、
「としやえん」というコトバがやってきました。
「こどもの城」が終わって、
「としやえん」がはじまったのですね。
亮さんがその場で描いてくれたアクリル絵の具の看板は、
昭和の楽しい遊園地の香りがしたので、昭和っぽい窓に、
小澤がすきだったサーカスの飾りものをつけて写真を撮りました。
1/31,2/1,2/2と、三日間。
筆者は、渡辺亮夫妻と一緒でした。
ノリさん(渡辺令夫人)が、
「毎日会ってるから、家族みたいだね。」
と、言葉をかけてくれると、
小澤のフワフワとした髪が揺れるような感触を感じました。
つるさん。
こどもの城が閉まる瞬間のこと、
つるさんは、いつもいろんな想像をして、とても心配をしていましたね。
閉館に対して、いろんな思いを抱えている大人同士が衝突をして、
こどもたちが大きな声におびえる事がないように、
こどもたちに危険がないように、
「嫌な事が起きないといいよね」
「どんな風に、音楽ロビーの戸が最後に閉まるんだろうね。」
いろんな事を言ってたね。
それはそれは、
淡々と進んでいったよ。
熱いけれど、こどもたちの安全を考えながらね。
Yちゃんなんてね。
自分たちの最後のステージなのに、MCで、
「大人の人、座ってください、こどもたちが見えるように」
って、言ってたし、
時間が押して、トイレに行きたい子がいると、ステージ側からトイレに直行や、
リュックのバケツリレーで、
大混雑の音楽ロビーを職員さんたちは立派に廻していったよ。
これが、「お城」なんだよね。
こんどは、
小澤敏也から、
こどもの城への、
(写真提供 玉井正剛)
OBRIGADO!
文責 オフィスジングルジム 坂本真理