遺作「Farewell March」への経緯
12/21にパンデイロチーム「JINGLE GYM」によって、初演された
「Farewell March」について、
解説をする意味で、最期の数日間の事をまとめてある花輪についての記事を
再編集しました。
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小澤敏也は、5/13の癌告知直後から、没後の指示を細やかに残し、
10/18に、静観治療の方針が決まると、
死後直後に、直接お知らせするべき方、告知をするタイミング、
助手から報告をする方、友人らの分担、
葬儀の時のBGMに至るまで指示を残し、リストを作成していました。
葬儀の費用等も含めて、お金の管理もしていました。
10/19の退院後は、車椅子も使用していましたが、
外食や買い物も楽しみ、
11/16には、大好きだった「おおたか静流」さんのコンサートに、
ご家族と親族そろって出かけ、
大きな声で観客参加のレスポンスをしていました。
栄養補助のために流動食も摂取していましたが、
甘いものが大好きで、亡くなる日は、夕食後のデザートを食べるのをとりやめると、
「明日、食べるから」と、
それを冷蔵庫に入れるように指示をしました。
自力で立ち上がる事ができなくなった数時間後に、
ご兄弟に見守れながら亡くなったそうです。
ご自宅で生涯を終えるために、訪問医療に切り替え、
ミュージシャンとして接してくださる医師や、
人間的に尊敬できる看護士とも出逢い、
看護士に同行した実習生のために、楽器も演奏したそうです。
最軽量のパンデイロの演奏が、短時間しかできなくなると、
パソコンを新調し、多重録音が手軽にできる体制を整えました。
11/11には、カリンバと肉声の小品を、
11/15には、パンデイロバツカーダを残しました。
亡くなって一夜明けると、彼がリストに残した数名の身内が集結し、
ご遺体に作法に則した挨拶をしました。
小澤敏也が死去の3日前に残したパンデイロバツカーダを、
彼の最も信頼する兄パーカッショニストの渡辺亮が、譜面におこし、
彼が出演する筈だった12/21ジングルクリスマスに弟子に託す準備をしてくれました。
亮さんは、小澤敏也が残したリストを手帳に書きとめ、
お一人ずつの関係を熱心にメモをしました。
「偲ぶ会」のアウトラインは、ご遺体の葬儀への準備を葬儀社の方がしている傍らで、
高校時代の同級生、兄家族、姉家族と一緒に考えたものです。
亡くなられた方を送る会をする方法のアドバイスは、
葬儀社の方が丁寧にしてくださいました。
葬儀社の指定も、先に亡くなられた母君と同じ会社が良いと、
彼が生前に決めていたものです。
洋服の処分、古い写真の処分、
楽器用倉庫として借りていたアパートを引っ越し業者に依頼して済ませたり、
残した楽器の行き先を指示も残しています。
「終活」という言葉を頻繁に使っていました。
最後の方は、写真を撮るのを嫌っていましたが、
痩せこけてしまっていても、
目だけは輝きを失っていないのが自慢でした。
抗がん剤をやめ、丸山ワクチンに治療を切り替えてからは、
抜け毛がほとんどなく、産毛も戻って髪が増えた事もとても喜んでいました。
着るものにこだわる人だったので、
腹水でお腹まわりが大きくなると、ベルボトムジーンズの名店高円寺
のNAKAYAの
オーバーオールを愛用していました。
自宅には電動の療養ベットが入り、
室内では、四点杖を使い、日常の事は、
血流の事を考えてなるべく自分でやろうとしていました。
同居している兄家族や、通いで夜通しの介護をする姉、
付き添いのベッドも横に設置して、
家族による万全の体制をしいていました。
ご兄姉の絆の深さは、
皮手芸作家であったお母様(故人)の遺志でもあると思います。
死後の処置をしてくださった看護士さんに、
「最後まで尊厳を持ってお亡くなりになられた方のお顔ですよ。」
と、言っていただきました。
亡くなる数時間前には、立ち上がりと歩行の補助は、兄の手を借りながらも、
自力でトイレをすませました。
壮絶な痛みに耐えながら、
大好きなサッカーをテレビで観戦していました。
スポーツマンシップを貫いたパンデイロッカーは、
人生で二つの事しかしてきていない、が口癖でした。
「音楽」と、「サッカー」と。