そら庵
小澤敏也と縁の深かった「清澄白河」のブックカフェ「そら庵」が、
まもなく終了するというお知らせがありました。
小澤敏也の追悼の記事も掲載していただいています。
小澤は、
「俺は、本当は俳優になりたかったんだ」
と言って、芝居にこっていた時期がありました。
「パンデイロを叩きながらの芝居」
というジャンルをやりたいというので、
私(オフィスジングルジム、小澤のたったひとりのスタッフ、なんでも屋)が、台本を書いて、パンデイロミュージカルをつくりました。
その初演を、やらせていただいたのが、「そら庵」さん。
上リンクにもありますけれど、
この日にフラリとやってきた外国人ゲストが、そのまま私たちのショーをみてくださったのですね。
それからしばらくして、
「東京オリンピックのときには、こんな風な場所がとっても日本らしくいいんだ」
という事を言いだして、
「俺が死んだ後、東京オリンピックの時には、世界のどこかで俺のパンデイロウェブレッスンを受講して、俺の楽器や足跡をたどりたい人がやってくるかもしれない。」
病気で、終活をしている時も、いつも「東京オリンピックで死んでいる俺を訪ねてくる外人」という事をイメージしながら、いろいろと分類や処分をすすめていた小澤。
そら庵を含めた、東東京でのいろいろな思い出を共有している私には、
そんな時にもピンとくるもの、共感できる事がいくつもありました。
私も小澤も西東京育ちなので、標高が高く、湿度も低い環境が落ち着きます。
東東京にいくと、ほぼ海面と同じ高度のところがあるので、
それが敏感に感じられるのです。(小澤の動物的な感性ではです。)
アウェイな肌感覚が、いろんなミラクルを呼びました。
東東京にいくと、いつも、面白いことがあったと、肌の感覚とシンクロして記憶に残り、いつも、思い返して話していました。
小澤敏也といえば、
ここ最近では、パンデイロの演奏家としては知らなくても、
「ミュージシャンとしての終活をしっかりやった人」のモデルケースとして、注目する方もいると聞いています。
何でも「初めてやること」が大好きだった人なので、
この評価は、本人としてもとても喜んでいると思っています。
そこをふまえて、
「そら庵」を憶う時に、イメージするのは、
小澤が自分が余命が見えてくるに従って、円が描いている地図のように、だんだんと自分が行ける距離の直径が狭くなっていくという事を予測していて、あらかじめ、行ける時には行っておき、そこがもう限界だと感じると、
「もう、ここは最後だなぁ〜」
と、土地に対してのお別れの儀式をしていた姿をおもいおこします。
「そら庵」でみた夕焼けを思い出しながら、
東大和の自宅の夕焼けを見る。
「もう、そら庵には行けないなぁ〜」と、いいながら・・・。
つるさん、
東京オリンピックには、きっと、「東京=パンデイロウェブレッスンOZAWA」と思っている人がくるよね。